本当なら今頃、明日のIBF/WBA世界バンタム級タイトルマッチ井上尚弥vsジョンリール・カシメロをわくわくしながら待っていたはずです。

前日計量も終わり「井上、完璧に仕上げたなあ!」「カシメロ、2回目で計量パスなんてちゃんとしてくれ」「リングサイドにドネアとナバレッテが呼ばれてるのか!」とか…。
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虚しい。虚しすぎます。

スポーツにタラレバなんてありませんが、今回はタラレバ以前の問題で「スポーツどころじゃない」という重大事とみんなで戦わなければなりません。

静かすぎる4月25日日曜日の夜。

本来だったらプロ野球のナイター中継などを楽しんでいるはずなのに。

タラレバの話に次元を下げながらも、明らかにおかしな判定が下されたことでボクシングの歴史が変わってしまった事件を振り返り、再審を執行します。

第1回はもちろん、あの忌々しい「南半球の悪夢」です。

【判例】1969年7月28日、WBC世界フェザー級タイトルマッチ15回戦。王者ジョニー・ファメションvsファイティング原田

会場はオーストラリア、シドニーのシドニースタジアム。

王者ファメションはフランス系オーストラリア人で、ボクシング一家に育った俊才。父アンドレはフランスのライト級王者で叔父レイは欧州とフランスのフェザー級タイトルをコレクション、やはり叔父のエミールはフランスのフライ級王者。

他にもバンタム級のアルフレド、フライ級のルシアンら、これでもかという血筋です。

1960年代後半から70年代初頭にかけて世界のボクシング界は、他の階級同様に承認団体の分裂に揺れました。

さらにフェザー級では、一人のアイドル(と呼ぶにはあまりにも実力があり過ぎましたが、超強豪王者と呼ぶだけではその人気の絶大さを伝えきれません)の気まぐれで翻弄されていました。

ビセンテ・サルディバルです。

1964年9月26日、「あしたのジョー」にも登場した〝殺人パンチャー〟シュガー・ラモスを地元メキシコシチーのエルトレオ闘牛場に王者を引っ張り込んだサルディバルは番狂わせの12ラウンドKOでUndisputed Championになります。

「完全アウエーで2万4000人の大観衆に調子を崩されたのか?」と聞かれたキューバのスラッガーは「サルディバルを人気先行のアイドルと言ったのは誰だ?彼は誰にも負けないだろう」と完敗を認めます。

1967年10月14日、強敵ハワード・ウィンストンを12ラウンドで振り切り8度目の防衛に成功したサルディバルは「もうリングの上で証明することはない。カネも十分に稼いだ」と引退宣言。

このときのリングは闘牛場ではなくアステカスタジアム。サルディバルの勝利に歓喜・熱狂した10万人を超える大観衆は、まさかの引退宣言に今度は大号泣。

もしギネスブックに申請していたら「一か所で一斉に本気で泣いた人数をカウントする永遠不滅の世界記録」でした。

そして、フェザー級タイトルはWBAとWBCがそれぞれ決定戦を実施して分裂。あれから53年の歳月が流れましたがUndisputed Championは今も生まれていません。

その世界王者決定戦のWBC版で関光徳を9ラウンドTKOで斬り落としたハワード・ウィンストンを、5ラウンドでストップしたのがホセ・レグラ。

レグラは〝Pocket Cassius Clay〟の異名を持つキューバ生まれのスペイン人です。このレグラを判定で下したのがファメション。

※77歳になるレグラは今月上旬に新型コロナと診断され入院中、現在は快方に向かっているとのことです。

この試合が60試合目となる原田が勝てば、1938年のヘンリー・アームストロング以来31年ぶりの史上3人目の3階級制覇達成です。

トニー・カンゾネリ(フェザー/ライト/ジュニアウェルター)とバーニー・ロス(ライト/ジュニアウェルター/ウェルター)をトリプルクラウンに数える場合もありますが、彼らが活躍した1930年代はジュニア階級は認めない傾向が強く、原田vsファメション戦では、ボブ・フィッツモンズ(ミドル/ライトヘビー/ヘビー)とアームストロングの2人だけが正真正銘の3階級制覇でした。

そして、原田が挑むのも純粋8階級での3つ目のタイトル。文句無しの3階級制覇です。

リング誌など欧米メディアは「フライ/バンタム/フェザーの3階級制覇は史上初」(それいうと前例が2人しかいない偉業なのでほとんど史上初になっちゃいますが)と持ち上げる一方で「フェザー級はWBCだからUndisputed Championの3階級制覇ではない」とケチをつけることも忘れていません。

いずれにしても、原田は日本やアジアの枠を超えた歴史的な大偉業に挑んだのです。
実況アナが「約40年ぶりの3階級制覇」と語っていますが、正確には「約30年ぶり」です。

ボクシングの素晴らしいところは、リングの中は半世紀以上前の当時も今と何も変わらないことです。

バンタム級は118ポンド、フェザー級は126ポンド、リングの中は2人のボクサーとレフェリーだけ。

大型化が進むヘビー級(無差別級)では「デンプシーなんてクルーザー級以下」という偏見に隙を与えてしまいますが、その他の〝有差別階級〟では永遠に不変です。

ただ、リング外は今とは違いました。承認団体はまだ二つに分裂したばかり。階級も10階級。世界王者は世界に20人いるかいないかの時代です。

そして…判定のシステムも今とは全く違いました。5点法が一般的だったのはまだしも、3人のジャッジのうち1人はレフェリーという、今では考えられない変則でした。

原田の世界戦でもエデル・ジョフレ第1戦ではレフェリーのバーニー・ロスもスコアリングするなど、レフェリーが採点に加わっていました。

レフェリーが採点に加わるばかりか、英国では「最も近い目撃者」であるレフェリー1人だけが採点するのが伝統で、英連邦の一つオーストラリアのコミッションが統括するファメションとの初戦でもそのスタイルが取られてしまいました。

しかし、問題はそこではありません。

3度のダウンを奪ったあの試合、どこをどう見ればファメションの勝利になるのか?

レフェリーのウィリー・ペップは、ダウンを奪ったラウンドでも5−4(本来なら5−3)とスコア、試合終了では両者の手を挙げる(引き分けのジェスチュア)など迷走。

ファメションの防衛が告げられたシドニースタジアムの大観衆は「こんな試合、オーストラリアの恥だ!」足を踏みならして猛抗議、騒然となりますが、原田は潔く判定を受け入れファメションとハグすると観客は立ち上がりスタンディングオベーションを贈りました。

もし、あの日、原田が内容どおりのスコアで圧勝の判定を受けていたら?

原田の名誉はさらに引き上げられていました。

そして、その最大の〝被害者〟はマニー・パッキャオです。

2003年11月15日、パッキャオがアントニオ・マルコ・バレラを下したアジア初の3階級制覇は「アジア2人目」で、3階級全てがアルファベット王者のa champion です。

3階級中2階級で The Undisputed Championの原田と比較されることはなかったでしょう。

典型的な穴王者デビッド・ディアスを斬った4階級制覇などでは原田超えなど認められるわけがなく、パッキャオがアジア史上最高ボクサーになるのは2009年5月2日のリッキー・ハットン戦で5階級制覇を果たすまで、5年は引き伸ばされたはずです。