金田正一が86歳で天国に行きました。

野球少年だった頃、金田が好きではありませんでした。昔話しかできない偉ぶった解説者だったからです。 

「(ボールのスピードは時速250kmの)新幹線と同じくらい出てた」 。

「(絶対に打つと断言した原辰徳が凡退すると)みなさん!原を許してやって下さい!」。

金田が解説してると気分も沈んだ幼稚な野球少年にとって、彼は「老害」そのものでした。




ニューヨーク・ヤンキースから入団を誘われたときには「アンパイアも日本の選手が来たら潰すよ。対日感情もすごく悪かった…」(10月8日:朝日新聞朝刊「天声人語」)と日本人初のメジャーリーガーを見送りました。




金田を「凄い人だな」と思い始めたのは社会人になってからです。その頃になると、もう何世代も野球選手を見ていますから、いろんな想像力が働くものです。

「顔が貧相だから大成しない」と斬り捨てられ、一時は口もきかなかった落合博満が「いくら時代が違っても飛び抜けてるんだもん、普通に考えたらわかること。今でも通用する相当速い球を投げてたのは間違いない」と歴代最高投手と語ったことにも影響されているのかもしれません。
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1962年、当時の奪三振世界記録「3508」に並び、雄叫びをあげる金田。

前置きが長くなりました。

今夜のお題は「日本プロ野球のレジェンドはMLBでも通用したのか?」です。

まず、NPBとMLBの現時点の実力差を推測します。

いまだにMLBで箸にも棒にもならなかったネフタリ・ソト(横浜)のような選手がNPBでは2年連続本塁打王になるように、そのレベル差は歴然としています。

マイルズ・マイコラスのようにMLBで鳴かず飛ばずだった投手が日本で開花、米国に帰って最多勝を獲るようなケースも珍しくありませんが、マイコラスは日本で一流投手でした。

NPBでソトのように箸にも棒にもかからない日本人の二軍選手がMLBで本塁打王になれるか?

日本でマイコラスのように鳴かず飛ばずの選手が、MLBに行って一流の成績を収められるか?

そう考えると、日米のレベル差には相当に大きな開きがあります。

MLBで最も大きな成功を収めたイチローですら、日本時代の成績と比べると長打力も打率も著しく減退してしまっているのです。



それでも、圧縮バットやあからさまに飛ぶボール、球足の速い人工芝や固い土のフィールド、狭い箱庭球場でプレーしていた金田の時代よりも、MLB規格に近づいた現代の方が日米の差は縮まっているというのが通説です。


すでにお気づきの方、これを読んで「それはおかしいだろ」と気付いた方もいるでしょう。

そうです。この〝通説〟は大きな矛盾を孕んでいます。

①圧縮バット②飛ぶボール③球足の速いサーフェイス④狭い球場。

これらはいずれも打者に有利になる環境です。

①の圧縮バットの時代は遠くに去っていたとはいえ、イチローや松井の時代も今も、②③④は引き続きの環境です。彼らの打者としてのスケールが日本時代よりもスケールダウンしたのは、十分頷けます。

そして①②③④はいずれも投手にとってはMLBよりも過酷な環境です。

もし、NPBとMLBのレベルが同じだったとしても、この規格の違いから日本の打者が米国に行けば成績が落ちるのは必然です。

今以上に打者有利の環境が揃っていた1970年代以前の打者がMLBに挑戦したら、非常に厳しい結果しか待ち受けてなかったでしょう。

一方で、投手は成績が上がることになります。

現実には日米のレベル差は歴然としてますから、打者は大きくスケールダウンしてしまいます。投手もスケールダウンは免れませんが、打者ほどその落差はありません。

もし、全盛期の金田がヤンキースのユニフォームに袖を通していたら、主力投手の一人になっていたのは疑いようがありません。

金田と現役時代が少しかぶる日本人初のメジャーリーガー、村上雅則の日米での実績もその推測を裏付ける材料になります。

プロ入りから3年目の村上は、南海ホークスから1964年にサンフランシスコ・ジャイアンツの四軍にあたる1Aチームに野球留学。その年の9月にメジャー昇格。

シーズン終盤ということもありこの年の登板数は9試合、投球回数は15にとどまります。しかし、成績は1勝0敗1セーブ防御率1.80。奪三振数も15。

翌1965年は45試合71回1/3を投げて4勝1敗8セーブ防御率3.75 。NPBで全く実績のない、高卒間もない〝留学生〟が、文句なしにMLBで通用したのです。

1966年に南海に呼び戻されえた村上は先発に回り、1968年には18勝をマークします。しかし、15勝以上を挙げたのはこの年だけでした。そのキャリアで二桁勝利も5度だけ、当時の先発投手としては平凡な記録に終わります。

MLBに行く前の1963年はNPBで3試合に登板して勝ち負けなし、防御率4.50。MLBから南海に戻った1966年は6勝4敗、防御率3.08。

変則サウスポーの村上だけをサンプルにして総論を語るのは、公正を欠くかもしれません。

しかし、今以上のバッターズ・パラダイス、つまりピッチャーズ・ヘルだった非常にタフなNPBで投げていた投手は、日本で挙げた成績に近い数字を米国でもマークしていたという仮説は成り立つでしょう。

村上がMLBに爪痕を残した1964年からわずか1年前の1963年、国鉄スワローズで30勝、防御率1.98の金田がピンストライプのユニフォームを着ていたら、いったい何勝したでしょうか?

1961年、NPB歴代最多勝利42を挙げた稲尾和久がMLBで投げていたら、何が起きていたでしょうか?

NPBよりも環境的に圧倒的に投手有利で、試合数も多いMLB。

おそらく、金田は日本記録の「400」を、稲尾は「42」をMLBのマウンドで更新していたはずです。