平成とともにイチローが去っていきました。
バッティングでも世界最高の技術を確立した鈴木一朗が、スポーツ教本を著し、その理論を言葉にしてくれる日が訪れるとしたら、今から楽しみで仕方がありません。
ベンチを出てからウェイティングサークルへ。そしてバッターボックスに入り、初球を待つまで、イチローは独特の長いルーティンを守り続けました。
日本ではバットを持った右手を投手方向に伸ばしてヘッドを投手に向けていましたが「MLBではタブーの挑発行為にあたる」として、バットを立てるようにはなりましたが、それ以外のルーティンはほとんど変わることがありませんでした。
一方で、そのバッティングフォームはどんなに大きな成功を収めても毎年のようにモデルチェンジを繰り返してきました。
セーフティバントから意識して内野に転がす内野安打、そしてやはり狙って打つホームラン。
バッティングフォーム同様、その打撃のオプションは幅広く、周到に用意されていました。
今から25年前。
イチローが1994年に出現した翌年のオープン戦で、あの落合博満が、まさかの振り子打法を試行したシーンには誰もが驚きました。
落合をもってしても、イチローは衝撃的な存在だったのです。
ここで紹介している「バッティングの理屈」の中で落合は「イチロー打法をまねしてはいけない」と5ページにも渡って警鐘を鳴らしています。
落合はイチローの非常識を2点、挙げています。
①インパクトの瞬間は右足一本に体重を乗せ、右足の内側で回転して打っていること。
バッティングの常識は「体の中心線を動かさずに軸足で回転する」「いかに体をスウェーさせないで打つか」。
>逆足に体重を乗せるなんて、ありえません。そんなこと、今でも誰も教えるわけもありません。
「イチローは投手寄りに体をスウェーさせ、全体重を右足の乗せてボールを叩く。私の考えとはまったく違う、いやまったく正反対のスイングなのである」。
「イチローと何度か話をし、私のバッティング理論をぶつけてみた。意外というか当たり前というか、彼は私のバッテイング理論も完全に理解していたのだ。さらに、軸足の使い方に両足親指の付け根で立つ感覚などまで全く同じで、あのバッティングフォームが理にかなっていることをあらためて思い知らされた」。
「理にかなっているどころか、投手寄りにスウェーする打ち方はヘッドの出が良くなるという利点がある。ボールを左右に打ち分けるにも好都合で、左打者のイチローにとってはバッティングの途中にもかかわらず、一塁に向かって大きく重心をかけられる、事実上のスタートを切っているという利点まであるのだ」。
②ボール球を意識的に打っている。
「バッティングの常識は好球必打。ボール球に手を出さないこと」。
「ボール球はヒットになる確率が低いばかりか、打ちにいくとバッティングフォームを崩してしまう。このことに異を唱える人はいないだろう」。
「しかし、ヒットゾーンにボールを転がす、ボテボテのボールを打って俊足で内野安打を稼ぐという考え方を優先すると〝ストライク(打つべき球)になるボール球〟は確かに存在する」。
「これは、ホームランを求められる私のような打者には出来ないし、そもそもあらゆるボール球は手を出してはいけないのが常識で、打ってもいいボール球があるなんて普通なら思いもつかない発想だ」。
「イチローがボール球を打つのは、本人の中では悪球打ちではないし、ましてや選球眼が悪いのでもない。むしろ選球眼が優れているから、打てるボール球を一瞬で識別できるのだ」。
>イチローが言う審判のストライクボールを見極める「選球眼」ではなく、打てると感じると体が反応する「選球体」というやつですね。
「打撃理論は多様であり、正解はいくつもある。そう書いてきた私がイチローのまねをしてはいけないというのは何故か。イチローは私たちの思考よりももっと自由な発想で野球を考え抜いて、その理論を実践するために下半身を中心に必死に鍛え抜いて体に覚えさせた選手だからだ。自由な発想が出来て、その上で過酷な練習に向き合う覚悟がないのなら、絶対にまねしてはいけない」。
「もし、まねしても良いときが来るとしたら、彼が引退後にそのメカニズムを詳細に解説してはじめて、イチロー打法を少しずつ模倣していくことが可能になるのだ」。
>ESPNは全盛期のイチローのバットを「魔術の棒」と表現しましたが、種明かしされていない魔術を形だけ模倣することほど危険なことはありません。
イチローが著す〝バッティングの理屈〟は、やはり一般の野球人には理解できない常識外の魔術のままなのでしょうか?
それとも…そのメカニズムが誰にでも応用できる形でつまびらかにされるのでしょうか?
「まねをしてはいけないと書いたが、坪井智哉のように青山学院時代に振り子打法を取り入れ成功した打者もいる」。
「前述のようにイチロー打法は、理にかなっている。そのことは左打者にとって特に顕著で、この理を頭と体でわかった上で試行錯誤していくことには意味があるが、やはりほとんどすべての野球選手は、今の段階ではまねしてはいけない」。
「イチローや王貞治を天才の一言で片付ける人がいるが、私の考えはまったく違う」。
「王さんはタイミングの取り方に迷い悩み抜いた末に右足を大きく上げた。イチローは細くて軽い体でいかに強くボールを叩くかを追求して右足を振り子のように大きく振った。私も右肘が体の後ろに入り過ぎるという悪癖が治らないから、試行錯誤の末に両腕を体の前に出した」。
「天才ではないから、必死で考え抜いたのだ。そして誰も教えてくれないバッティングフォームを、誰よりも多くバットを振ることで体に覚えさせたのだ。王さんもイチローも、あのバッティングフォームは天才芸術家の名作なんかじゃない。野球に命をかけた二人が悪戦苦闘の末に辿り着いた、努力の産物なのだ」。
*********
イチローと落合。
左の万能型と、右のスラッガー。
全く対極に見えますが、そのバットに対するこだわりは共通していました。
「バットを短く持つのは意味がない。グリップからヘッド、バットの形とバランスには意味がある。わざわざ長いバットの途中を短く握るなら、最初から短いバットを作って正しくグリップの上を握るべき」。
落合の言葉を聞いたわけではないでしょうが、ヒットを打つためにあらゆる方法を駆使したにもかかわらずイチローもまた、バットを短く持つことはついにありませんでした。
バッティングでも世界最高の技術を確立した鈴木一朗が、スポーツ教本を著し、その理論を言葉にしてくれる日が訪れるとしたら、今から楽しみで仕方がありません。
ベンチを出てからウェイティングサークルへ。そしてバッターボックスに入り、初球を待つまで、イチローは独特の長いルーティンを守り続けました。
日本ではバットを持った右手を投手方向に伸ばしてヘッドを投手に向けていましたが「MLBではタブーの挑発行為にあたる」として、バットを立てるようにはなりましたが、それ以外のルーティンはほとんど変わることがありませんでした。
一方で、そのバッティングフォームはどんなに大きな成功を収めても毎年のようにモデルチェンジを繰り返してきました。
セーフティバントから意識して内野に転がす内野安打、そしてやはり狙って打つホームラン。
バッティングフォーム同様、その打撃のオプションは幅広く、周到に用意されていました。
今から25年前。
イチローが1994年に出現した翌年のオープン戦で、あの落合博満が、まさかの振り子打法を試行したシーンには誰もが驚きました。
落合をもってしても、イチローは衝撃的な存在だったのです。
ここで紹介している「バッティングの理屈」の中で落合は「イチロー打法をまねしてはいけない」と5ページにも渡って警鐘を鳴らしています。
落合はイチローの非常識を2点、挙げています。
①インパクトの瞬間は右足一本に体重を乗せ、右足の内側で回転して打っていること。
バッティングの常識は「体の中心線を動かさずに軸足で回転する」「いかに体をスウェーさせないで打つか」。
>逆足に体重を乗せるなんて、ありえません。そんなこと、今でも誰も教えるわけもありません。
「イチローは投手寄りに体をスウェーさせ、全体重を右足の乗せてボールを叩く。私の考えとはまったく違う、いやまったく正反対のスイングなのである」。
「イチローと何度か話をし、私のバッティング理論をぶつけてみた。意外というか当たり前というか、彼は私のバッテイング理論も完全に理解していたのだ。さらに、軸足の使い方に両足親指の付け根で立つ感覚などまで全く同じで、あのバッティングフォームが理にかなっていることをあらためて思い知らされた」。
「理にかなっているどころか、投手寄りにスウェーする打ち方はヘッドの出が良くなるという利点がある。ボールを左右に打ち分けるにも好都合で、左打者のイチローにとってはバッティングの途中にもかかわらず、一塁に向かって大きく重心をかけられる、事実上のスタートを切っているという利点まであるのだ」。
②ボール球を意識的に打っている。
「バッティングの常識は好球必打。ボール球に手を出さないこと」。
「ボール球はヒットになる確率が低いばかりか、打ちにいくとバッティングフォームを崩してしまう。このことに異を唱える人はいないだろう」。
「しかし、ヒットゾーンにボールを転がす、ボテボテのボールを打って俊足で内野安打を稼ぐという考え方を優先すると〝ストライク(打つべき球)になるボール球〟は確かに存在する」。
「これは、ホームランを求められる私のような打者には出来ないし、そもそもあらゆるボール球は手を出してはいけないのが常識で、打ってもいいボール球があるなんて普通なら思いもつかない発想だ」。
「イチローがボール球を打つのは、本人の中では悪球打ちではないし、ましてや選球眼が悪いのでもない。むしろ選球眼が優れているから、打てるボール球を一瞬で識別できるのだ」。
>イチローが言う審判のストライクボールを見極める「選球眼」ではなく、打てると感じると体が反応する「選球体」というやつですね。
「打撃理論は多様であり、正解はいくつもある。そう書いてきた私がイチローのまねをしてはいけないというのは何故か。イチローは私たちの思考よりももっと自由な発想で野球を考え抜いて、その理論を実践するために下半身を中心に必死に鍛え抜いて体に覚えさせた選手だからだ。自由な発想が出来て、その上で過酷な練習に向き合う覚悟がないのなら、絶対にまねしてはいけない」。
「もし、まねしても良いときが来るとしたら、彼が引退後にそのメカニズムを詳細に解説してはじめて、イチロー打法を少しずつ模倣していくことが可能になるのだ」。
>ESPNは全盛期のイチローのバットを「魔術の棒」と表現しましたが、種明かしされていない魔術を形だけ模倣することほど危険なことはありません。
イチローが著す〝バッティングの理屈〟は、やはり一般の野球人には理解できない常識外の魔術のままなのでしょうか?
それとも…そのメカニズムが誰にでも応用できる形でつまびらかにされるのでしょうか?
「まねをしてはいけないと書いたが、坪井智哉のように青山学院時代に振り子打法を取り入れ成功した打者もいる」。
「前述のようにイチロー打法は、理にかなっている。そのことは左打者にとって特に顕著で、この理を頭と体でわかった上で試行錯誤していくことには意味があるが、やはりほとんどすべての野球選手は、今の段階ではまねしてはいけない」。
「イチローや王貞治を天才の一言で片付ける人がいるが、私の考えはまったく違う」。
「王さんはタイミングの取り方に迷い悩み抜いた末に右足を大きく上げた。イチローは細くて軽い体でいかに強くボールを叩くかを追求して右足を振り子のように大きく振った。私も右肘が体の後ろに入り過ぎるという悪癖が治らないから、試行錯誤の末に両腕を体の前に出した」。
「天才ではないから、必死で考え抜いたのだ。そして誰も教えてくれないバッティングフォームを、誰よりも多くバットを振ることで体に覚えさせたのだ。王さんもイチローも、あのバッティングフォームは天才芸術家の名作なんかじゃない。野球に命をかけた二人が悪戦苦闘の末に辿り着いた、努力の産物なのだ」。
*********
イチローと落合。
左の万能型と、右のスラッガー。
全く対極に見えますが、そのバットに対するこだわりは共通していました。
「バットを短く持つのは意味がない。グリップからヘッド、バットの形とバランスには意味がある。わざわざ長いバットの途中を短く握るなら、最初から短いバットを作って正しくグリップの上を握るべき」。
落合の言葉を聞いたわけではないでしょうが、ヒットを打つためにあらゆる方法を駆使したにもかかわらずイチローもまた、バットを短く持つことはついにありませんでした。
私は追い込まれたら指一本短く持つようにしていました。
そのことがボールにバットを当てやすくすると理屈立てて理解してた訳ではありません。
確かに短くバットを持ったからといって、空振りのリスクを低減出来るわけがありません。
私が野球に情熱を注いでいた時代、落合は現役バリバリで「バッテイングの理屈」など影も形もありませんでした。
ましてや、イチローの理論など冗談でも思いつかない類の“異端の思想”でした。
あえて言い訳が許されるなら、バットを短く持つことで「コンパクトに振れる」「バットに当てやすい」と思える、信じることが出来るという心理的な効果は間違いなくありました。
コメント