そのとき自分が関心を持っていたものに、神様が配剤したかのように偶然出会う。
そういうことって、時々ありますよね。
新幹線のフリーペーパーに沢木耕太郎がエッセイを連載しているのを見つけた数日後に、米国ボクシングニューズ24が、面白い記事をアップしてくれていました。
拙訳です。
夏の終わりの、ひどく蒸し暑い午後だった。
上空の雲は、いつ雨を降らせてやろうかと脅迫するように低く黒くトグロを巻いていた。
嫌な予感は的中する。
ネオンが点き始めた横浜中華街の入口近くで、巨大な給水塔の底が抜けたかのようなゲリラ豪雨に見舞われてしまったのだ。
大粒の雨が、弾丸を打ち込むような大音響でアスファルトを叩く。
目的の場所はすぐ近くのはずだったが、住所とビルの二階ということしか分からなかった。
傘も効かないスコールのような雨を避けて、とりあえず雨宿りに駆け込んだ小さな建物の案内板に、その名前を見つけた。
E&Jカシアスジム。
傘を畳んで二階に上がり、入口のドアを開けると、ジムはものすごい湿気と汗の匂いで蒸せ返っていた。
私の眼鏡はたちまち曇り、視界はゼロに。
立ちすくむ私に、練習生たちが、軍隊式の大きな声で挨拶、歓迎してくれた。
曇った眼鏡を拭いていると、若い女性が「インタビューのお約束ですね?」と微笑んで「カシアスは今こちらに向かっていますのでしばらくお持ち下さい」と小さなベンチに座るよう薦めてくれた。
書棚に並ぶ本や壁に貼られた写真を眺めながら、彼の到着を待った。
カシアス内藤。
米国では畏れ多くて誰もリングネームに出来ない、その名を使う元プロボクサーだ。
咽頭癌と闘いながらジムを経営しているカシアスは、今69歳。
在日米軍兵の父親と日本人の母親との間に生まれたカシアスは、小さい頃から抜群の運動神経を発揮、目立つ存在だった。
もちろん、それ以上に目立っていたのはその漆黒の肌と、縮れた髪の毛だったが。
観光ではなく、日本で生活する、それは明らかに外国人の見た目を持つ少年にとって、非常に複雑で、ときとして残酷な体験であることは容易に想像できる。
朝鮮戦争に従軍、戦死してしまった父親の顔を彼は覚えていない。
もし、父親が生きていて、米軍基地の中で暮らしていたら、外見も生い立ちもそこでは異質ではない彼は全く違う人生を送ることが出来ただろう。
ジムで練習に励んでいるのは、その多くが10代の若者だ。
そういえば、ジムは彩り豊かで若い雰囲気が満ち溢れている。
しばらくすると、内藤が到着した。
もう70前と言うのに、その声も立ち居振舞いもずっと若く見えた。
内藤は人懐っこい笑みを浮かべると「少し静かなところに移りましょう」と、近くの喫茶店に案内してくれた。
カウンターにはアルバイトの大学生らしい女性が二人。
私が初めてカシアス内藤について知ったのは、日本の有名な作家が1970年代に書いた短編だった。
題名は「クレイになれなかった男」。
クレイとはカシアス・クレイのこと、偉大なモハメド・アリの本名だ。
物語は、日本を代表するホープだったカジアス内藤をサポートする著者が、有り余る才能を持ちながら世界王者はもちろん、リングの上ではついに何者にもなれなかった内藤を透明なレンズを通して語るように書き綴っていく。
そして、その原因を、勝利への飽くなき執着が内藤に欠落していたからだと結論づける。
カシアス内藤は、皮肉にもその名をいただいたカシアス・クレイが無尽蔵に持っていたものを持ち合わせていなかったのだ。
それはボクサーとしては致命的な欠陥だったかもしれない…しかし、それは同時に人間としては人を思いやる感情が豊かで、いろんな気配りが出来るということだった。
私は、カシアスの名を背負った彼に無性に会いたくなったのだ。
優しい目をしたカシアスは、静かにゆっくりと語ってくれた。
米軍基地の近くで育った少年時代。
彼が過ごした1950年代は、日本にとっては経済的にも精神的にも、敗戦の傷跡がまだ生々しい時代だった。
1950年代の日本。
米軍基地内なら悠々自適でも、基地の外で黒い肌を持つ少年が生きるには、あまりにもタフな時代だった。
誰もが彼に異端を見る冷たい視線を突き刺し、同年代の少年たちには囃し立てられ、いじめられた。
「どうしてと聞かれたら答えようがないけど、彼らを憎んだことは一度もなかったなあ。彼らが私をいじめたい理由もわかるし、それを止めさせることもできないし…」。
「それでも、毎日いじめられるのは耐えられなかった。ある日、3〜4人のいじめっ子に囲まれて殴られていたとき、自分を守るためにそのうちの一人にやり返した。すると、その子は『どうして俺だけ?』と泣き叫んだ。その子はもう私に向かってくる気が折れていたので、次の子に向かったよ」。
「悪いやつばかりじゃなかった。友達になってくれたやつも、助けてくれたやつもいた。そんなやつらは、今でも友達さ」。
カシアス内藤は、とにかく運動ならなんでも出来た。
ボクシングをやる前は、優秀なハードル選手だった。
そして、彼が最初に教わったボクシングは、非常に伝統的なスタイルだった。
ガードを高く上げて、打たれたら打ち返す。
それは、テレビで見たカシアス・クレイとは全く違うボクシングだった。クレイはダンスを踊るようにリングを回り、ノーガードで相手を挑発し、打たせずに打っていた。
運命の出会いがあった。
エディ・タウンゼントがトレーナーをしていたジムのドアを叩いたのだ。
エディは、そのときすでに何人かの世界王者を育てた名伯楽だった。
そのときから、エディが天国に旅立った1988年まで、二人の関係は特別なものだった。エディは父親だった。
その後も世界王者を何人も育て、日本を代表するトレーナーとなったエディは、あるインタビューで最も才能があったボクサーを教えて下さいと尋ねられると「カシアス内藤だ」と間髪いれずに答えたという。
過酷な毎日を送った少年時代から、モハメド・アリは希望のシンボルだった。
カシアス内藤の本名は、内藤純一という。
E&Jカシアスジム。Jは純一を、最初のEはエディを表わす。
尊敬するアリの名前、カシアスをリングネームに採用したのは彼の希望だった。
そして、アリ本人にそのことを話し、承認してもらう機会にも恵まれた。
そのとき、アリはすでにアリであり、ザ・グレイテストにとってカシアスは奴隷の名前でしかなかった。
アリは「カシアスを名乗るのは認めない、モハメドを使え」と何度も諭したが、内藤は尊敬する人の言葉を頑なに拒否、最後はアリの方が折れた。
それから数年後の1972年4月。
アリはマック・フォスターとの〝顔見せ〟試合に来日した。
試合後、アリは詰めかけた大観衆の中に内藤を見つけると彼を呼び寄せて叫んだ。
「俺は世界で最も偉大な男だが、この男も俺と同じくらいに偉大だ。カシアス内藤だ!」。
アリがボクサーとしていかに偉大か、米国史においていかに偉大な役割を果たし、世界にいかに偉大な影響をあたえたか…その種のことは語り尽くされているが、アリを愛すべき偉人たらしめているのは、細やかな気配りと他者への尊敬だ。
「カシアスなんて奴隷の名前を使うな」というのはアリにとっては絶対に譲れない、その存在に関わることだったはずだ。
それを聞き入れなかった内藤を群衆の中に見つけて、彼を讃えて励ましたというのだ。
人目を憚らず感激に泣く内藤の涙をアリは拭いてくれたという。
「偉大な男は涙を見せるな!」。
もし、あのときアリの言葉を受け入れてムハマド内藤になっていたとしても、やはりアリは群衆の中に内藤を見つけて同じ称賛を叫んだかもしれない。
しかし、その言葉は少し軽いものになっていたかもしれない。
雨は、やんでいた。
私たちは喫茶店を出て、ジムに戻った。
カシアス内藤の写真を撮らせてもらうためだ。
「こうやって若いボクサーの指導をするのは、やっぱりやりがいがある?」。
「もちろん。若者たちに何かを伝えたい、教えたいというのは、ずっと考えていた夢だったからね」。
「幸せな毎日だよ」。
微笑むカシアス内藤からは幸福のオーラが発散していた。
「これまでの人生のどこを振り返っても、今が間違いなく一番幸せだなあ」。
Twitter: @RishadMarquardt
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