Hope Lights Our Way  希望の道を、つなごう。

12月29日、村田諒太とゲンナディ・ゴロフキンのミドル級タイトルマッチが延期になってしまい、楽しみが消えちゃったからでしょうか、毎日どんよりしております。
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東京メトロ、混んでいます。

よくよく考えたら、今年は村田諒太と井岡一翔の大勝負が流れて、マニー・パッキャオも引退してしまいました。

リング誌の年間購読は続けるとはいえ、2021年はボクシングファンとしては微妙な一年で終わりそうです。
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スポーツ・イラストレイテッド誌が選ぶ「スポーツ・パーソン・オブ・ザ・イヤー」が7日(日本時間8日)発表され、エンゼルス大谷翔平投手は落選。

今年2月のスーパーボウルを制し通算5度目のMVPに輝いたNFLバッカニアーズのQBトム・ブレイディが16年ぶり2度目の受賞。

https://www.si.com/sportsperson/2021/12/08/tom-brady-wins-sports-illustrated-sportsperson-of-the-year-daily-cover

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このブログでも「ボクサーは1981年のシュガー・レイ・レナード以来40年間、タイソンもパッキャオも誰も受賞出来ていない」と紹介してきた米国が選ぶ世界最高のスポーツマン。

ダブルカバーの特集を組むなど大谷フィーバーを先導してくれたスポイラだっただけに、獲ると確信していましたが…まさかの落選。

米国における野球はもはやメジャースポーツとは言い切れないことが影響したのかどうかはわかりませんが、残念でした。

ボクシングだと、カネロ・アルバレスがヘビー級まで制したとしても獲れませんね、これじゃ。


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WOWOWの「エキサイトマッチ30周年SP〜レジェンド名勝負選「黄金の中量級」特集」が始まるのに合わせて、2019/03/31に書いたお話の引き揚げです…。
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時代の変遷が記憶を稀釈してしまうのは、自然の摂理です。

時代を超えて語られ続ける存在もあれば、時間によって濾過されてしまう人生もあります。

ビートルズの初期メンバー、スチュアート・サトクリフのように、ウィルフレド・ベニテスはいつも〝五番目の男〟でした。

そして、サトクリフが21歳で生涯を閉じたように、ベニテスもまた急降下で墜落する飛行機のような人生を辿るのです。

いや、ベニテスはまだ生きています。

1958年9月12日生まれ、60歳になるベニテスが「レナード=ハグラー=ハーンズ=デュラン」のクラブへの入会が許されずにいる理由、つまり「FOUR KINGS」ではなく「FIVE KINGS」と語り継がれなかった原因は、偉大なラウンドロビン(総当たり)の宇宙の中でマービン・ハグラーとだけ拳を交えるチャンスに恵まれなかったから、なのかもしれません。

しかし、デュランをボクシングで封じ込め、レナードを追い込み、ハーンズを判定までもつれさせた事実をボクシングファンは忘れてはなりません。

ベニテスはあろうことか17歳で、あのアントニオ・セルバンテスを競り落とし初戴冠、三階級制覇まで達成したのです。

それなのに、彼の偉業は正しく評価されていません。

あのリング誌ですら1980年代PFPで、ウィルフレド・ベニテスの名を10傑に刻むことを失念してしまっているのです。

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9度防衛とはいえ注目度もレベルも低いバンタム級ジェフ・チャンドラーを10位に滑り込ませ、1位レナードの「重要な対戦相手」でも凡庸なアユブ・カルレを挙げながらベニテスの名を忘却しているのです。

ボクシグ史に残る天才ボクサーは、40歳を健康な形で迎えることが出来ませんでした。

プロ62戦で蓄積されたダメージから、ボクサー型の認知症を患い、38歳の時に母親宅のリビングで倒れて昏睡状態に陥ってしまったのです。

救急車が駆けつけ、診断した医師から家族は「最悪の事態を覚悟するように」と告げられてしまいます。

1990年9月の試合を最後に引退。それから6年の歳月は、ベニテスの心身を酷く蝕んでいました。

昏睡状態からは回復したものの、認知症は進行、肉体も精神も自由がきかなくなっていきます。


稀代の天才がボクシングの道へ進んだのは、父親グレゴリオの影響でした。

「最初に女の子を授かった。それから男の子。男の子が生まれたらボクサーにしようと決めていたんだ」。

4人の男の子は父親の希望通りにプロボクサーになりました。

グレゴリオJr.、フランキー、アルフォンソ、3人の兄たちはみんな才能に恵まれていましたが、末っ子のベニテスの天賦はボクシングを始めた8歳のときから別の次元だったと伝えられています。

15歳でプロ転向。わずか2年で世界王者に登りつめるのです。しかも、10連続防衛中のセルバンテスを攻略して。

無敗のまま世界王者になり、米国メディアから「本物の天才」と絶賛された17歳の少年の敵は、リングの中にいるわけがありません。

プエルトリコの金持ち連中にとって、母国の英雄ベニテスをパーティに呼ぶことがステイタスになりました。

それは米国のボクシグ界でも同じでした。

カネも酒も女も、向こうから津波のように押し寄せてきました。10代の少年にとって、その波に溺れないなんて選択肢はありえません。

それでも、驚くべきことに、ベニテスは勝ち続けるのです。

二階級制覇をかけたカルロス・パロミノ戦(1979年1月14日)についてベニテスは「戦う準備は全くできていなかった」と二年後に告白しています。

「中盤にはスタミナが切れて、足も動かなくなってしまった。立っているのもやっとの状態だったから、ずっとロープにもたれてたんだ」。

しかし、メディアやファンの目には、ベニテスが伝説的なウェルター級王者をロープに誘い込み、効果的なカウンターを打ち込み続ける高等技術を披露しているようにしか見えませんでした。

そして…。貴重な授業になるはずだったパロミノ戦からも、ベニテスは学ぼうとはしませんでした。

練習をさぼりながら、酒と女に溺れながら、初防衛をクリア。

しかし、二度目の防衛戦はごまかしなどきかない相手でした。

トレーナーを務める父グレゴリオも「セルバンテスもパロミノも強敵だったが、今度の相手は若くてスピードもパワーも彼らよりもはるかに上だ」と真面目に練習するように促しますが、聞く耳など持ちません。

「若い?奴は23歳、俺はまだ21歳だ。俺の方が若い。スピードとパワー?じゃあ、そいつは俺よりもボクシングが巧いのか?」。

「お前よりボクシングが巧い奴など世の中にいるわけがない。でも、それだけじゃ勝てないこともあるんだ。それだけじゃ…」。

父親の箴言をベニテスは「ボクシングは技術だけで勝てるスポーツだ。それは俺のキャリアが証明している。巧いやつが強い、巧いやつが勝つ、そういうスポーツなのさ」と笑い飛ばすのでした。

父親も陣営の誰もが、今度の相手が実力以上にとんでもない強敵であるとわかっていました。

「相手は強いだけじゃない。米国のテレビが作り上げた怪物だ。仕組まれたリングで勝つのは並大抵のことじゃない。微妙な判定では絶対に勝てない、明白な形でなければ勝てない」。

“My father would say, ‘Train.’ I would say, ‘No.’ But if I train, then I am the best boxer in the world.” 父親は「練習しろ」とうるさかった。俺はいつも「嫌だね」と答えてた。そりゃそうさ。その気になれば、俺はいつでも世界最高のボクサーになれるんだから。

人生に、ボクシングにタラレバなどあるはずがありません。 

しかし、ベニテスが真面目に練習して1979年11月30日シーザースパレスのメガファイトのリングに上がっていたら…。

ベニテスがレナードを弄んだ挙句、勝利を収めていたでしょう。 



▶︎▶︎▶︎明後日のWOWOWが放送するのは、1979年11月30日/アメリカ・ネバダ州ラスベガス シーザースパレス スポーツ・パビリオンで行われた「ベニテスvsレナード」です。

この試合は、誰が解説してくれるのでしょうか?

大昔に文藝春秋が発売したビデオ(日本人向け・日本人好みの「Fabulous4」がタイトルでした)では「レナハン」を浜田剛史がじっくりと解説してくれていました。今回も〝琉球の侍〟の声が聞きたいです!

ビートルズは「FOUR KINGS」ではなく「Fabulous4」と称されることが多く、これはボクシングと音楽の違いかもしれません。

ああ、でも「キング・オブ・ホップ」マイケル・ジャクソンはいますね…。

お前は「FOUR KINGS」と「Fabulous4」のどっちか一つしかか選べない、と神様だか悪魔だかに迫られたら…?

これは、究極の選択です。

とにも、かくにも!

二人の天才が撒き散らす、色鮮やかなな拳の交錯を刮目して見よ!!! 
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瀬古利彦は「俺のときにもそうせぇよ!」と憤ってるかもしれません。

米国が北京冬季五輪に対する「外交的ボイコット」を発表しました。

「外交的ボイコット」は開会式や閉会式に、その国の政治的代表を派遣しないという抗議の形です。

最大の抗議形は選手団も派遣しない「完全ボイコット」で、瀬古らのモスクワ1980で日米など西側諸国が、その報復としてロス1984で東側諸国が実行してしまいました。

「外交的ボイコット」は人権問題などで深刻な抑圧を行っている中国やロシアに対して、北京2008とソチ2014でも検討されていた外交オプションの一つです。

「完全ボイコット」は選手があまりにも不憫ですが、国を代表する政治家、岸田文雄首相が開会式に出席しなくても「全くどーでもいい」というのが、スポーツファンの本音でしょう。

とはいえ、日本の立場上は米国に追随しなければなりません。そして、中国は重要な貿易相手で、東京2020に〝完全体〟で参加してくれた恩義もまだ新鮮です。

「政治」から遠く「スポーツに至近」の室伏広治スポーツ庁長官を派遣することで、中国に対しては「日本の代表」として、米国に対しては「岸田首相ら政治のトップは行かせなかった」という、両大国に顔が立つアイデアもあちこちで語られています。

中国が台頭してから、米国との板挟み状態の日本の立場は非常に情けないものがあります。とはいえ、米国追従一辺倒だった時代から潮目が変わっています。

極論ですが、もう一回戦争して米国と中国に勝ったらこの立場は逆転するのですが、それはありえませんし、あってはいけません。

今の状況は、あの戦争で負けたからこうなっちゃったんです。

そんなこと、おおっぴらに言っちゃいけません。しかも、あの〝宣戦布告〟からちょうど80年目が迫るこんな時期に。

でも、そういうことなんですよね…。
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私が世界のボクシングに惹きこまれたのは、FOUR KINGSの電撃を受けたからでした。

クイーンズベリールールが発表された1867年を近代ボクシングの曙とすると、1980年代はすでに100年以上の歳月が流れていました。

この100年、当たり前ですがヘビー級の時代でした。そして、1960年代から米国ボクシングは凋落の坂道を下り始めるとはいえ、その60年代と70年代をリードしたのはモハメド・アリでした。

衛星放送によって世界中に放映権が売られ、クローズドサーキットによって巨額のファイトマネーが保障され、そして何よりもボクシングを超越した社会的・国際的なアイコンでもあったアリが存在した時代を「下り坂」と呼ぶのは強烈な抵抗があります。

しかし、それはアリがあまりにも偉大だったということで、ボクシング全体のステイタスは明らかに沈降していきました。

アリが完全にリングから降りた80年代、ヘビー級はアリのコピー、ラリー・ホームズが鈍重な挑戦者を相手に防衛戦を重ねるだけの退屈なリングに成り果てていました。

試合米国ボクシングは真っ暗闇の谷底に滑り落ちるはずでした…。
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モントリオール五輪金メダリスト、シュガー・レイ・レナードはホームズやマイケル・スピンクスよりも艶やかなカリスマ性を持っていましたが、アリの穴を埋めることなど出来るわけがありません。

所詮はウェルター級の俊英です。

しかし、このボクシング最大の危機に直面したメインイベンツやトップランクなど米国の大手プロモーターとリング誌は、足並みを揃えたマーケティングを展開します。

「パウンド・フォー・パウンドの概念からはスピードとパワーが高次元で結晶したウェルター級やミドル級のボクサーの方が鈍重なヘビー級よりも優れている」。 

PFPはボクシング黄金時代に、完璧なスタイルを披露したシュガー・レイ・ロビンソンを賞賛するために広められた手形でしたが、それはロッキー・マルシアノらヘビー級のスター選手の陰に隠れたロビンソンへの慰めの意味もありました。

「PFPといってもヘビー級より弱いんでしょ」。

PFPを冠したロビンソンとレナードの違いは、ロビンソンは後から付けた慰めでしたが、レナードは最初からPFPという手形をかざしてリングに上がっていたということです。

正確にはレナード「たち」でした。

現在のリング誌PFPを見渡すと①カネロ・アルバレス(スーパーミドル級)、②オレクサンダー・ウシク(ヘビー級)、③テレンス・クロフォード(ウェルター級)、④井上尚弥(バンタム級)、⑤ジョシュ・テイラー(ジュニアウェルター級)、⑥エロール・スペンスJr.、⑦ファン・フランシスコ・エストラーダ(ジュニアバンタム級)、⑧ワシル・ロマチェンコ(ライト級)、⑨井岡一翔(ジュニアバンタム級)、⑩タイソン・フューリー(ヘビー級)。

同じヘビー級で2位のウシクと10位のフューリーが戦うとなると、10位が圧倒的有利と見られることは間違いなく、PFPって一体なんなの?という素朴な疑問はさておき、PFPファイターは様々な階級から優れたファイターが選ばれています。

PFPファイター同士の戦いが滅多に見られないのは無理もありません。

レアケースとはいえ「フリオ・セサール・チャベスvsパーネル・ウイテカー」「フロイド・メイウェザーvsマニー・パッキャオ」のような1位vs2位の激突もありました。

ただ、当たり前ですがトップに立ったファイターが次々と総当たりで激突するなんて、狂喜乱舞な奇跡はありえません。

この10年のPFPキングをリング誌のBEST FIGHTER POLLで振り返ると2002〜03年:ロイ・ジョーンズ、2004年:バーナード・ホプキンス、2005〜07年:フロイド・メイウェザー、2008〜10年:マニー・パッキャオ、2011〜14年:メイウェザー、2015〜16年:ローマン・ゴンザレス、2017年:ゲンナディ・ゴロフキン&テレンス・クロフォード(同点)、2018年:ワシル・ロマチェンコ。

BEST FIGHTER POLLがリストラされてからは〝猫の目電子版PFP〟の〝多数月〟で2019〜21年:カネロ・アルバレス。

PFPキングが激突するなんて異常事態はまず起こりえません。幸運にもそんな奇跡が起きたとしても「ロイvsホプの2戦」はもちろん「メイvsパック」も最高のタイミングで拳を交えたとはとても言えません。

もし、最高のタイミングで激突したとしても、そのマッチアップでおしまいです。そして、最も大事なこと「その試合は面白かったか?」という点でも、近年のキング対決は物足りないものがあります。
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では、FOUR KINGSは?

まず、文字どおり、キングが四人が覇を競ったのです。それも全盛期に。

「レナードのために用意された」はずのBEST FIGHTER POLL。その第1回1980年のキングは、大番狂わせでレナードを破ったロベルト・デュラン、2位レナード。

1981年はトーマス・ハーンズ、2位レナード、3位マービン・ハグラー。

1982年はレナード。

そして1983〜86年まではハグラー。

この四人が総当たりで激闘を繰り広げたのです。

試合までのワクワク感は半端じゃありません。

そして、肝心の試合も痺れるほど面白かったのです。
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